ディベートとは?

ディベートとは?
Wikiから抜粋

ディベート(debate)とは、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論することをいう(広義のディベート)。討論(会)とも呼ばれている。
ディベートは、厳密にはディスカッション(discussion)や単なる議論とは異なるものであるが、一般にはこれらの区別なく「ディベート」ないし「討論」と呼ばれることが多い(最広義のディベート)。この語法は既に定着している部分もあが、誤った使い方であるとの見方も根強い。
様々な教育目的のために行われる教育ディベート(academic debate)が、単に「ディベート」と呼ばれることもある(狭義のディベート)。特に、教育ディベート関係者の間では、「ディベート」といえば通常は教育ディベートを指す。
教育ディベートでは、その多くが説得力を競い合う競技の形で行われる。競技として行われるディベートを競技ディベート(competitive debate)という(最狭義のディベート)。多くの異なったスタイルがあり、目的に応じて選択される。
特に断りのない限り、広義のディベートを「ディベート」と呼ぶ。

しかしながら、僕が思う辻義塾で必要なディベートとは
「言いたいことを言う」
「思いを伝える」
ではない、ということです。

自分思う答えと違う事に対して評価し発言する。
個人の意見としては賛成なのに反対派のグループの一員として正当化する努力をうなど。

また敦志先生がくれたヒントは
「反対する意見を想定して答えを用意する」

先生たちは日々終礼後にこれを繰り返しています。
自己主張、世間で当然とされている事
代えれないこと変えれないこと、
あきらめているだけの事、出来る事を知らない事

最近、敦志先生と僕はこの仕組みを変えるために、教室にいないことが多く非常に悩んでいます。
もっとこどもたちと関わり教えたい事があるのに、世の中には変えなくては成らない仕組みが沢山あり
変えれない事、変わらない事をあたりまえだと世の中の大半の人は誤認し改善策もわからず
ただ悩み苦しんでいます。

「俺らがやらねば誰がやる!」
僕たちが変えなければ、僕たちが諦めてしまえば
子供たちに教えている事が嘘になります。

今は非常に苦しいですが、子供達の未来が
またその子供たち、僕らの孫たちが希望を持てる日本に変えたい

そんな途方も無い夢のような事に挑戦し戦い続けたいと思います。
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記/先生